ネパールで迎えた、仏陀の誕生日
― 信仰が“義務”じゃなく“喜び”として生きている場所 ―
ネパールを訪れていたある日、
ブッダの誕生日にあたる「ブッダ・ジャヤンティ」の日(5月の満月の日)に、
私は首都カトマンズにある聖なる寺院、スワヤンブナートを訪れました。
その日、驚いたのは――
仏陀の誕生日が、まるで“家族の誕生日”かのように祝われていたことです。
宗教が「ワクワクするイベント」になっていた
寺にはたくさんの人々が訪れていて、
その中でも特に目をひいたのが若者たちの姿でした。
友達同士、カップル、友達グループ、大家族で…
日本の祇園祭やクリスマスマーケットのような雰囲気で、
みんなオシャレをして、笑顔で、まるでお祭りを楽しむように集まっていたのです。
正直なところ、
私は「宗教行事=家族で参加するもの」「特に年配の人が大切にしているもの」というイメージを持っていました。
でもここネパールでは、若者たちが自発的に、楽しみにして参加している。
友達同士できているということは
親に「行くわよ、準備しなさい」と言われたからじゃなくて、
「一緒にブッダの誕生日、行かない?」と友達を誘って来ている。
そのことが、私は本当に素敵だなと感じました。
自分を救ってくれた存在だから、祝いたくなる
彼女たちの笑顔を見て、ふと感じたのは、
“ブッダは彼女たちにとって、人生を何度も救ってくれた存在なんだ”ということ。
だからこそ、心から「おめでとう」と言いたくなる。
それは信仰というよりも、家族への感謝や愛情に近い。
彼女たちにとって宗教は、
厳しいルールや制約じゃなく、
人生の中で自然と寄り添ってくれるもの、支えになってくれるものなんだと知りました。
あるべき信仰の形
ネパールで見た宗教の風景は、
私にとってとても新鮮で、どこか優しく、自由でした。
祈り方も人それぞれで
「〜しなきゃいけない」じゃなくて、「〜したいから」。
そんな“自然の摂理”のような信仰の形が、ネパールにはちゃんと残っていました。
異国の地で見た“祈りのかたち”は、
私の中にある宗教観をやわらかく溶かして、
「信じるって、きっとこういうことなんだ」と、教えてくれました。
宗教であれ、なんであれ
目に見えないものが人を強くすると私は信じています。